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2013
06.05

誤って殺処分“一匹の猫の置き去りになった悲しみ”

猫の郵便については はじめにを是非ご覧ください。アーカイブはこちらです。

「・・・記事をどう読んでも、斜めにしても、逆さまにしても、誰にも、どこにも、何の痛みも感じられない。それは何故?」 
昨夜のジャーナルはこう締めくくりました。

命が誤って殺(あや)められたのに。どこからも痛みが伝わって来ないのは、それは何故なのか? 答えは極めて単純明瞭。簡単です。

それは、誤って殺した対象が彼らにとって“物”だったからです。六者六様に“物”としての扱いだったからです。
法律でも、動物を虐待死させても“器物損壊”という軽い言葉で処理されています。犬猫は“器物”だから、殺処分制度の中で殺し続けることが心理的負担を軽減し、可能にしているのです。
「間違って殺しちゃいました」でペコリと頭を下げて済ませられる。“器物”という名の許しがあるのです。
“物の命”は軽い。枯葉を踏みしめて歩くようなもの。枯葉を踏みしめるのに、誰も罪悪感など、感じたりはしない。

これが今の日本の動物を取り囲む心理的な現状なのです。そして、動物民度を形作っています。
“動物の権利”という言葉が市民権を持って活かされている国とそうでない国の、文化度の天と地ほどの落差。
動物の権利(Animal Rights)と言っても、動物自らがこぶしを振り上げたり、スローガンを叫べるわけはありません。動物の権利とは、そばに生きる人間がしなければいけない“命への配慮”のことです。
しかし、動物が“物”として古すぎる固定観念の中に据え置かれるままでは、「動物の権利」までたどり着く道のりは果てしなく遠いようです。

しかし、とにかく。動物への意識を市民目線で「物」から「いのち」へと変えて行かなければ何も始まらない。
国が変わらなければ、市民レベルで「猫の飼い方」「犬の飼い方」を考え直し、変えてゆかなければならない。
まず、その第一歩は、今回の札幌市の事件で殺された猫さんに深い哀悼の意をささげることです。悲しみを置き去りにしないことです。

今回の誰も責任をとらない札幌・無責任殺処分事件でも、またもや新聞各社の報じ方には、一番の被害者の「一匹の猫」の悲しみが置き去りにされた感がありました。それをアンチ・テーゼとして。


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