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2014
04.21

女のいない男たち

猫の郵便については はじめにを是非ご覧ください。アーカイブはこちらです。    18℃~10℃ 



女のいない男たち】村上春樹の新作本。優越感と劣等感を刺激し挑発して本を売る算段ですね。コップの水に優越感と劣等感を入れステアしクルクル渦になって騒ぎ回る水の乱れ/世の乱れを眺めて、ニンマリする売れっ子作家。

ビートルズの関西弁替え歌って一体何なんだ。おちゃらけと悪趣味にもほどがある。

おっさんなのだ。ダサ過ぎるのだ。

村上春樹は「ノルウェーの森」の頃から中産階級ど真ん中意識テロテロテラテラしていて苦手だった。自分とは世界が違う人。ノリ、ソリ、チャンネルが合わない。肌が合わない。

一つの価値観から外れているからと言って、それをコンプレックスにする謂(いわ)れは何もない。

人生には第三の道、第四の道という価値がある。誰かの価値に耳をそばだて、他所の借り衣を無理やり着込んで、心かき乱し自分を見失うのではなく、内なる所から吹く風に押されて生きていけばそれでいい。

犬のいる暮し。猫のいる暮し。犬のいない暮らし。猫のいない暮らし。男親がいないシングルマザーの道を選んだ女の決断。孤独を美とする道。アッシジのフランチェスコのように敬虔なキリスト教徒として生きる道。
さまざまな価値が混ざり合いながら溶けていくのが世界というもの。さまざまな価値、人の人生の違いをやわらかくぼかし夕日の中に溶かし込んでゆくのが夜というもの。

飼い主のいない猫ににべもない視線を送る虚無と無為に比べれば、「女のいない男たち」など他愛無い人生の戯れ事。世迷言だよ、村上くん。
時代も、世界も、村上春樹が考えるよりも、もっと遥か彼方で渇いている。彼の本の外、視界の外で渇いている。

視界の外で、人知れず死んでゆく犬猫を思う。産み出され、簡単に殺される不条理を思う日々である。




世界がいつからか多様性の海にダイブし動き始めているのを、古い頭の日本も村上春樹も知らない。見逃している。

冒頭の空白にアンチテーゼとして、David Bowieの「Where are we now?」を後貼り。

あんまり簡単な英語なので訳すと身も蓋もなくなり、意味の深さが消えてしまうので解説にします。

この曲はDavid Bowieが数年前に病気になり死線を彷徨したのをベースに作られたという説があります。

歌はだるい音に引きずられ、思い起こすように「僕はポツダム広場から出る列車に乗らなきゃいけなかった」と始まります。

列車はニュルンベルク通りを過ぎ、カーデーヴェー(デパート)を過ぎ、ベーゼ橋と渡って行く。
車窓には、ニュルンベルクの人波のジャングル、カーデーヴェーの近くでは時を失くした一人の男がさ迷う姿、2万人の人が亡者となって指を固く結びベーゼ橋を渡って行くのが映し出される。
どれもこれも亡者のさ迷い、亡者の行進。死んでゆく人たちの魂たちが彷徨している様。
つまり、この列車は生と死の間を走っている。
そして、歌は時々「Where are we now?(今どこにいるの)」とつぶやく。
そう。それはまだ自分が生きている側にいるのを暗示している。

そして、歌はこう結ばれ反芻される。
As long as there’s sun (ここに太陽がある限り)
As long as there’s rain (ここに雨が降る限り)
As long as there’s fire (ここに火がある限り)
As long as there’s me (ここに僕が生きている限り)
As long as there’s you (ここに君がいる限り)

「生きているだけでいい」というメッセージが込められているのが解ります。

しかし「As long as there‘s sun」と肯定的な言葉を歌うわりには、どこか哀しげで物憂げな無残感が伝わって来るのは、David BowieのDavid Bowieたる所以(ゆえん)なのだろう。彼独特の世界観や知性的な深さが表れている。
生きることの揚力と重力のすき間から聞こえて来る哀しげで物憂げな無残感、それは生きていることそのものの感慨のように聴こえる。


99リス

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